孤高の底辺。うんこ拭き(介護福祉士)おじさんの戯言ブログ💩:®️

“奴隷(介護職)”をクビになって、“社畜(葬祭屋)”になってまた介護職に復職したおっさんの随筆集✍️

親から虐待されて育った大人[12]

〜〜社会人編〜〜

 

 

 

そもそも求人が無い。。

 

短大時代の就活の時は、地域のホテル等で開かれるどこの合同企業説明会に参加した時でも会場全体がびっしり企業のブースで埋まっていました

 

なのに今年は....

会場の半分が空きスペース。

 適当にパイプ椅子やら机が並べられているだけで、参加している企業自体が2年前と比べると半減していました

 

大学卒業時点で、内定を得られなかった...つまり就職先がないまま社会に放り出された学生が学年の三分の一近くいて、 なんだかよくわからないのだけど「卒業してから一年目までは新卒扱い」とかいう謎ルールが採用されたらしい不思議な年でした

 

自分はというと、意外とすんなり五月くらいには就職先が決まっていました

 上場企業ではないけれど、地元のある県内では上位二十位以内に入るまずまず名の知れた企業、テレビでCMとかも流してるくらいには。職種は卸売業!!

 青果市場の営業職でした。

 

特に強いこだわりがあったわけではなくて、「とりま、経済経営系の文系やから就活の業種縛るなら営業はアリだな!」てな感じの軽い気持ちで内定を得ました。

 当時、五月に内定取得は学年でもかなり早い部類で行き先もまずまず。

 ゼミの担当教授からも「選んでいられる状況では無いから受けた方がいい」と言われてもいたのでさっさと承諾。

.....後にこの判断で地獄を見ることになろうとはこの時には露ほどもおもいませんでした

 

母親は相変わらず、祖父母を引き連れて未練がましく父親に文句を撒き散らしに来ていました

 

「私がいないと、お婆ちゃんが可哀想」

 

とまで言いだしました

 四半世紀に渡ってイジメぬき、同じ食卓についたことも、口を聞いている姿さえ見たことなかったのに、ここにきて祖母をダシにして家に戻せと言ってきたのです。。

 腹わたは煮え繰り返るし、頭は沸騰しそうでした。てかしてました。

当然、自分の就職のことも弟の進路のことも何も伝えませんでした

 

大学を卒業すると「研修」と称して新入社員は全員、本社に呼び寄せられ(営業職(男×12名)、事務職(女5、6人))共同生活が始まりました

 

入社式的なやつが終わると、事務職の女性社員たちは所属する支店にすぐに割り振られ、営業職の男性新入社員はこれから半年〜1年をかけて立派な社畜になる為の研修期間が始まりました

 

免許は持っていても、ペーパードライバーだった僕はまず、本社に車を運転してたどり着くところから苦労しました笑笑

....当時は本当に笑い事ではなかったのだけど。。

 

驚いたことに、与えられたアパートはレオパレスで二人で一部屋の所謂「ルームシェア」状態。

 駐車場も一部屋につき一台しか車をとめるスペースがないので通勤は相乗り。文字通り24時間みっちり「会社」に囲まれた生活が始まりました

 

本社のある土地での採用の連中は普通に自分の家に帰れたのだけど、自分のように支店のある土地での採用枠や県外の支店での採用者は根こそぎルームシェアでした

 

見ず知らずの土地で見ず知らずの他人とルームシェア。人生初の一人暮らしは自分にとっては、なかなかハードルの高いスタートでした

 これから寝食を共にする相方君は「なんだこれ?これじゃオ◯ニーも出来ねぇじゃん」とタバコをふかしながら吐き捨てるゴリゴリのヤンキー系。

 

うん。無理そう