医療法人時代。
基本的に、認知症患者というのはいま、自分がどこにいてなにをしているのか、ここがどこなのかということがわかりません。
かなりざっくりですがこのことを「見当識障害」と言います。
健常者(?)の認識に置き換えると、介護施設等に入居させられた本人たちの感覚は、理由もわからず突然拉致されて、言葉も通じない誰も知る人の居ない、遠い異国の地にいきなり放り出されて閉じ込められている。。
...というのが近いようです
歩いていたらいきなり車に押し込まれて、気がついたら北朝鮮の強制収容所に放り込まれていた.....当然言葉も通じない......イヤでしょ?
なので、彼ら彼女らの行う「徘徊」というのは自分たちがその状況に置かれたことを想定してみると特になんの不思議もないことなのです。
イメージの悪いこの「徘徊」という言葉、最近では使うの辞めよう!な流れが強い傾向にあるようです。
痴呆→認知症
人格障害→パーソナリティ障害
インポテンツ→ED
徘徊→???
どんな新しい単語が生まれてくるのか楽しみですね笑笑
たしか、外国産でしたが「障がい児」のことを「チャレンジド」とかいう、わけわかんねー造語に置き換えようとしていたのは完全に失敗したようです。
ただ、(ほぼ)身体も不自由で、危険を認識する能力が失われている認知症高齢者の徘徊をそのまま放置しておくわけにはいきません。
介護職の業務のそこそこ高い割合を占めるのが「見守り」と呼ばれるこれらの「危険行為」を予防することなのです。
もっと専門的な言い方が好まれるなら、「認知症の中核症状から生じるBPSDを抑制/軽減することにより患者本人及び周囲の保護」をすることが「見守り」です(批判を浴びるであろう認識な自覚はあります)
線引きが難しい(と、僕は思っている)のですが基本的に介護職は対象(入居者/認知症患者)の行動を阻害する行為はしてはいけないことになっています。
なので最も積極的な対応でも、せいぜい周囲の「環境整備」か後ろを付いて歩くくらいなものなのです。
もしも、本当に対象の安全を考えるのであればある程度の「抑制」は必要なんじゃないの?というのはあくまで僕個人の意見ですが、いまの介護業界ではこれはまるっきり許されざる思想で、間違いなく異端審問にかけられて火刑に処される危険思想なのです。
車に乗るときはシートベルトを締めないと罰せられます。
何才以下の子供ならチャイルドシートに乗せることを義務付けられています。これは行為自体は「体の自由を奪っている」ので「身体拘束」なのですが、あくまで「安全のための義務」なので身体拘束(=虐待)だと認識する人はいません。
ですが、より危険度の高いはずの「認知症」の「体の不自由」な老人相手だとこれらの行いは「身体拘束=虐待」ということになっています。
....ここら辺に個人的には過剰な「虐待アレルギー」を感じるのですがそれも危険思考なのでここでくらいしか言えません。
それも、社会全体からの介護業界と介護職への圧倒的な不信感と嫌悪感から来ているのではないかと(個人的に)思います。
「拘束」というと世の中の人たちは「鎖でがんじがらめにしてベッドに縛り付けておく」、か「縄でぐるぐる巻いて柱に繋いでおく」ことを思い浮かべるのでしょうがなにもそんなことしません。。
なにが虐待でなにがそうでないのかは、女性様の言う「セクハラ」と同じで「そう思われたらなんでもそう」な状態なので危険きわまりないと(個人的に)思います。
話がズレますが、弱者が弱さを盾にとってそこに悪意を上乗せさせると最上のグランギニョル(残酷劇)が生まれます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
数年前、深夜 午前2時
??「助けてぇ、疲れた、苦しい、もう歩けない、助けてぇ」
??「◯◯さん!お願いだからもう止まって!夜中だよ?ベッドに戻ってやすみましょうっっ(泣)」
神様「疲れたあ苦しい助けてえ助けてえ」
...たしかⅢa級の認知症だった足の不自由な神様が真夜中に鼻血をダラダラ垂れ流しながら押し車を押してふらふらになりながら廊下やらフロアを徘徊しておられました。
鼻をほじくる癖があり、だけど当然辞めろといって理解できるものでもないので執拗に鼻に指を突っ込んでほじくり返し、鼻血を垂れ流しながら歩き回ります。
着ている服やベッドの布団やシーツは血塗れ。昼間から何回も何回も更衣をしてシーツ交換をしてもまたすぐに血塗れ。なにかもう失血を心配した方がいいんじゃないの?と思うくらい辺りを血に染めながら徘徊し続けます。
自分で、「苦しい疲れた」と言っているのだから歩き回るのをやめればいいのにふらふらになりながら歩き続けます。
ただでさえ歩行不安定なのに疲労と失血で転倒でもされたら救いようがありません。しかも夜中に...
この時、勤めていたのは医療法人内の老健で4階構造の施設内に入居者は92名。(1階はデイサービス用)
夜勤は4人でまわす勤務体系でしたが他の階も手一杯で応援を呼んだりなんてできません。当時、やっと夜勤をやりだしたばかりの僕は泣きながらその徘徊する狂える神のあとをついてまわって床に垂れた鼻血を拭き取っている女の先輩を呆然とみていました。
1人が1人につきっきりになっている間にもそこらじゅうでナースコールは鳴りまくります。
トイレに連れてけ、布団をかけ直せ、部屋が暑い/寒い。今は何時だ、飯はまだか、家の誰それに電話をかけろ、すぐに呼べ...あとは特に意味や用事も無いものも。
時間毎の巡視やパット交換もしなきゃいけないし、それ以外にも諸々の物品補充や清掃やカルテの記載、やることは山ほどあります。
徘徊は認知症の中核症状から派生するBPSDなので対応の仕方次第で止める/軽減させることが出来る。だからそれが出来ないのは環境か、介護職の技量の問題....とはよく言われますが限度があります。
全てを野放図にしておくことを強要されているのにその中で、必要な人員基準にも達していないのにその中で、一切のアクシデントもインシデントも発生させず、神々(利用者)の要望は全て満たし、神々(上層部/管理者)の要望も全て満たし、何かあれば責任は全部自分。と言われる現場の奴隷たち(介護職)は、なにかもう虐待されているのは自分たちなんじゃないかと思っています。
ぼろぼろになりながら徘徊している老人のあとを、更にぼろぼろになりながら付いて回り床に落ちる鼻血を泣きながら拭き取ってまわるその先輩の姿をみながらもしかして、ここは地獄なんじゃないのか?と考えたりもしました。
なにも「拘束」と言わなくても鼻をほじくり返して鼻血を垂れ流すのを止める手立てをしてもいいのではないでしょうか?「疲れた苦しい助けてえ」と喚き散らしながら歩き続けるこの狂える神を鎮める手段をとってもいいのではないでしょうか?
「この夜」から早数年
資格も手にしたし経験も積んだ、だけど何が正しくて何が間違っているのか、誰が正しくて誰が間違っているのか未だに僕にはわかりません。
誰も彼もが苦痛と絶望と諦念に晒されつづけ引き裂かれ続けるこの世界、これからもずっとこのままなのでしょうか?
踠き苦しみながら這いずりまわり続ければその先には...
あるいは、いつか、きっと、、
fin.