孤高の底辺。うんこ拭き(介護福祉士)おじさんの戯言ブログ💩:®️

“奴隷(介護職)”をクビになって、“社畜(葬祭屋)”になってまた介護職に復職したおっさんの随筆集✍️

親から虐待されて育った大人。[17]

2年半、累計¥140,000,000。

 

 

相変わらず超過労ワークをしながらキャバクラに通い、キャバ嬢から「お誕生日プレゼントが欲しいな💕」なんて言われて14万したLVの財布をプレゼントしたり、同伴でご飯を食べて(奢って)からお店に行く途中で女性向け下着屋さんに入ってねだられてピンクのフリフリの上下セットの下着を買ったりしながら(キャバ嬢の笑顔 priceless‼️)気がつくと市場ではたらきだしてから2度目の夏が過ぎていました。

 

入社した当初には各地に散らされた13人いた新卒の営業職も使い物にならなくて左遷されたり過労と重圧と凄まじいブラック労働で退職していったりして残っていたのは自分含めて6人だけ(本社、支社含む)。

元々、周りに比べて評価もスペックも低くて碌に期待もされてなかったし誰からも軽んじられていた自分は、なぜだか生き残ってしまっていました笑笑

 

コミュ力もたいしてないし、騒々しくて荒っぽい市場の文化にもそんなに馴染めてなくて周りからも「お前は市場のバイヤーじゃなくて銀行員か教師って感じだよな」とよく言われていました。

営業職向きの人種ではけしてないよね。と、

 

それでもどんなに朝早くても一度も遅刻も欠席もしたこともなかったしバカはバカ也に一生懸命やってはいたのでそこそこ気にいってもらっていた取引相手もチラホラいました。

 職場の環境が激務でブラックなぶん同じ部署の仲間たちの結束力は強くて夜遅くまで働いていると、課長や部長が出前でピザをとってくれたり牛丼買ってきてくれたりしてみんなで食べたりしていました。なかなか楽しかったな

 

 

ただ、身体が持たない

 

 

際限なく押し寄せてくる膨大な品物と一年先までびっしり埋まっている売上計画。日本の其処彼処の港に置いてある自分の在庫と、これから税関を抜けて遠い国から入ってくる新しい品物たち。

 

24時間関係なしに鳴り止まない取引相手との電話で2年弱のあいだ、熟睡したこともありませんでした。

 

そして人(職員)も足りない

 

自分の扱っていたのはいうなれば細々とした木っ端品目で部内の売上げのなかでは大した比率はありません。(青果市場では野菜は売上げはそれぞれ(ほぼ)バランスよく配分されていますが、果実はリンゴ、柑橘類、いちご、スイカ、葡萄当の所謂、大品目にものすごく偏っていました)専門分野の「輸入果実」はコストがかかりすぎるので取扱量は200t以上あっても利鞘は本当に僅かなものでした。

 

よく上司から「市場のバイヤーは、一人で年間4億売上げてやっと一人前だ」と言われていましたが自分はまるっきりそれには届きませんでした。

 

自分のスペックや労働環境、周りからの評価も含めて「営業職」にあまり向いていないことはわかりきっていたけど、とにかく「一億円売りあげるまでは頑張ろう」と思っていました。

「一億円」と書くとなんか凄そうですが市場内では情けないほど低い目標値でした笑

 

勤めだしてからやっとその低い目標に到達できたのは2年目の夏の終わり頃。ちょうど盆商戦が終わって西瓜地獄から売り場の品物が葡萄に変わっていくくらいの時期でした🍉⇨🍇

 

それとなく上司には退職することを匂わせていたので話をすると割とスムーズに進み、「俺も、◯◯(僕)はよく頑張っていたけど他のことした方が向いてると思うよ」とありがたいお言葉をいただき、その年の10月に市場は卒業しました。

 

勤務していた日数はせいぜい2年と半年くらい。ただ、ほぼ無給で毎日15,6時間働いていたので実際の勤務期間は3,4年分くらいはあったと思います。

ドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」にいた気分。笑

 

細々と記録をつけていた合計の売上額は1億4000万円。本当に微々たるものですがまぁ目標は達成。

突然いなくなったような人もなかにはいたので、自分はそれなりに円満に退職することができました。

 

他にもいろいろあるキャバクラエピソードとか、飲み会で無理やり赤霧島飲まされて急性アルコール中毒になったり、二日酔いが酷すぎて病院で点滴してもらったり、パイナップル腐らせて何十万か自賠償したりとかいろいろあったのですがもう書ききれないので「市場時代」はこれでおしまい。

 

この頃はまだ全く全然、介護職の「か」の字も頭にありませんでした。

 

さて、次はなに(仕事)をやろうかな?