孤高の底辺。うんこ拭き(介護福祉士)おじさんの戯言ブログ💩:®️

“奴隷(介護職)”をクビになって、“社畜(葬祭屋)”になってまた介護職に復職したおっさんの随筆集✍️

親から虐待されて育った大人。[20]

もし、これが戯曲ならなんて酷いストーリーだろう?進むことも戻ることも出来ずにただ、舞台に立っているだけなのだから  ポルノグラフィテ  [アゲハ蝶]

 

所属した「技術部門」の職員は全部で13人。

 

機構(舞台設備管理/大道具) 5人

音響                                     4人

照明(⬅︎自分はここ!)         4人

 

かなり大規模な劇場だったけど技術部門は13人だけで、それぞれが3つのセクション(機構、音響、照明)に分かれて働いていました。

 

介護施設に例えるなら、介護、看護、リハビリみたいな感じ?

 

業界用語で、1つの施設の所属として働いている技術屋のことを「小屋付き」と呼び、ライブやコンサートのツアーに同行して全国を回る技術屋のことはまた別の呼び方がありました。

 

13人の中で女性は一人だけ。自分の配属先の「照明科」の四人の中のひとりで自分を除けばこの技術部門の中で一番の新入り、2つ、3つ年下の先輩でした(以下:先輩)。

その他の照明科のメンバーはリーダー格の50代の大ベテランのおっさんが一人(以下:長老)、30代半ばの茶髪の髭面が一人(以下:茶髪)。そこに、ど素人新人の自分が加わった4人でした。

 

技術部門全体のリーダーは機構のリーダーの30代半ばのサラサラヘアー(以下:サラサラ)、機構科所属で舞台監督の40代半ばの黒縁眼鏡のおじ様👓、音響は主に外部の技術系派遣会社の所属の人たち。

 他にも事務方の外部交渉係やら、広報スタッフやら調整役、それに芸術監督(物凄い有名人)様やら館長さんやら、劇場所属の劇団員の人たちがいました。

 

 

結論から言うとこの転職、全然大丈夫じゃありませんでした。大失敗でした。最悪でした。完全なる挫折でたったの4ヶ月で逃げ出しました。

 

職人系の仕事だし粗野で荒っぽい人が多いだろうなと思ってはいたのですが、完全に「見て覚えろ系」の教育体制。ハナっから「興味があったから」で足を踏み入れた自分のことを、技術部の皆様は心底気に入らなかったらしくて凄まじいイジメと攻撃を受けましたwww

 

超専門分野の職人の世界。しかもその筋では間違いなく日本トップクラスの一流の現場に「興味があったから入ってみました!なんにもわかんないけどね⭐️テヘペロ」な素人が委託職員でいきなり放り込まれてきた。そりゃあ気に食わないことでしょう。。

ただ、自分が勝手に「イジメと攻撃」と受け取ってるだけで実際そんなことはなかったのかもしれないけれど、、

 

とりあえず「そいつから教われ」と言われて、紅一点の女性社員の先輩のあとをついてまわったのですが、その先輩も年が近い「後輩」が出来たのが嬉しかったらしくて本当に丁寧に、いろいろなことを教えてくださいました。

照明の灯体(ライトの本体)の種類について、設置してある場所や用途や、舞台や劇場の専門用語や舞台設備について、配線の繋ぎかた、電球の交換の仕方、光に色をつけるためのフィルムの種類と番号について....

 

必死にメモを取って、とったメモをまとめて、命綱をつけて高いところに登って舞台の奈落の下に潜り込んで手を火傷だらけにしながらめちゃくちゃ熱く重い機材と灯体を運び回って....

 

大型トラックの荷台に乗って演目に使う為のあれこれを取りに行ったり、積み込んだり下ろしたり...

 

ある時、上司の茶髪から「明日までに全部覚えてこい」と床に放り投げられた大きな見取り図。劇場内にいくつかある舞台の「主ホール」の方の舞台照明の配置図でした。

 配置されている照明の数は軽く700以上(正確な数は783)、種類もまばらで配置されている位置も地上27mの天井裏から床下(奈落)まで多種多様。流石に勤めだして一月弱程度の素人に1日で暗記させるのは無理ってもんだろ..な内容でした。

 

4人しかいない照明科(長老、茶髪、先輩、自分)の中でこの“茶髪”とは初見から「あー、相性悪いだろな」と瞬時に悟っていたのですが、案の定でした。

 

決して人から好かれるタイプではない僕。

 子供の頃から友達が多かったことはないし、どんなに頑張っても好かれることも愛されることも出来ない自分はとかく、「敵を作りやすいタイプ」でした。決して自分から攻撃的に接したり、敵対行動をするわけではない(している自覚は無い)けど、なにかと冷たくて生意気に見えるようで本当に人付き合いがうまく出来ません。

 相性の悪い人間とは本当に極端に相性が悪い!...が自分の習性です。

当然、仕事だからそんなことも言ってられないので「シャカイジンラシク」振る舞うのだけれど。

 

一晩かけて必死に暗記したのだけど、次の日の「テスト」の結果はボロボロ。

茶髪は、自分が間違える度にテーブルの上に置いてある文房具やら書類やら本やらを腕を払って床にぶちまけたり、テーブルの脚やら椅子を蹴り飛ばしてひっくり返して怒鳴り散らしたり....懐かしの市場の商人たちのような凶暴性とパワハラっぷり(..まだ「パワハラ」なんて言葉ない時代だったけど)を惜しげなく発揮していました。

市場と違うところは単純な暴力性じゃなくて「敵意」と「悪意」があるところ。

 

 

               カ ラ サ ワ ハ ヤ ト

 

この名前は一生忘れない。

 

でもって周りの連中に「あいつは仕事を舐めてる。俺たちをバカにしている」と言いふらしていました。

 

味方なんて1人もいないし、話を聞いてくれる相手もいない。年の近い先輩は「自分は女だから甘くしてもらってる」と言いつつもいつも泣いていました。

 

始めたばかりで慣れない仕事と、「舞台」という本当に例えようもない独特な世界。

 

そこは

芸術の世界であり、

芸能の世界であり、

技術の世界であり、

職人の世界であり、

文化の世界であり、

美の世界であり、

無の世界であり、

狂の世界であり、

華やかな世界であり、

赤黒い世界であり、

三次元の世界であり、

二次元の世界であり、

虚飾の世界であり、

過去の世界であり、

未来の世界であり、

偉人たちの世界であり、

異人たちの世界であり、

 

とにかく、「非日常」と「日常」の境界線の上にある場所でした。

 

ど素人が足を踏み入れるには無理のありすぎる場所でした。

 

 

 

 

親から虐待されて育った大人。[19]

幕が、上がる。

 

翌年の四月一日

新しい職場での勤務がスタートしました。仕事の内容は....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

劇場の舞台の裏方、舞台照明💡‼️

 

あれこれ考えた結果、「商人」→「職人」への転向を決めました!

 

地元には、かなりハイレベルな大きな劇場があって(劇場という名前は付いていないけど)そこの舞台裏、技術部門の舞台照明科に配属されることになりました!

自分の本来の所属は面接を受けた民間企業なんだけど、そこから「委託職員」というかたちで、その公共施設であり◯◯芸術財団管轄の劇場の職員として勤めることになりました。

 

前職の市場のバイヤーとはなんの接点もありません。

 それどころか本当にただ「興味があったから」という理由だけで面接を受けに行ってきたら、自分の前に五人くらいスーツを着た男性が面接の順番待ちをしていて自分の順番は最後だったのだけど「求人一名」のところを合格してしまったのです!

 

ポンコツだけど、外面と第一印象だけは「真面目そう」、「頭良さそう」と言われて圧倒的に有利な僕は「なんの知識も技術もないけどヤル気はあります!」の一点突破で採用していただきました。

これが人生最大の地獄の始まりだとも知らずに

 

 

場面は戻って四月一日

新入職員の挨拶をそこの事務所で行った時も「前職は市場で営業を務めていました!これから一生懸命頑張ります!」とか当たり障りないことを言っていたのですが他にもニ、三人いた他の新人の人たちは...

 

「◯◯美術大学で◯◯を専攻していました!よろしくお願いします」とか

 

アメリカの◯◯で、◯◯をしていて帰国しました!経験を生かして頑張ります!」とか

 

もう本当に自分の場違い感ハンパない。

((((;゚Д゚)))))))

 

だけど、面接の時にも、事前に来た職場見学の時にも「ど素人だけど頑張ります!よろしくお願いします」と言ったら「うむ、やりながら学べば大丈夫だから頑張りたまえ」と、劇場の「総支配人」とか「芸術監督」とかいうとんでもない肩書きの人たちから激励されたんだし、一生懸命努力してやれるだけのことは必死にやろう!と当時、二十代の半ばだった自分は思っていました。

 

「文化、学問、自然、芸術」とかを売りにしている地元は、そこそこの観光地でその観光名所の中でもいくつかある「目玉」の一つであったその劇場。

 毎年、国内のその筋ではかなり有名な「音楽祭/オペラの上演」が催されていたり、ガチで一流の歌舞伎俳優が出張って来て「公演」を行ったり、おフランスからサーカス団がやってきたり「市民劇団」なるものがあったりする、よーするに「意識高い系文化都市」でした。

 

その「街の顔」ともいえる施設になんの知識も技術もないままに気軽に飛び込んだ自分。「これから頑張れば大丈夫!」と考えていたのですがどーなることやら、、

 

親から虐待されて育った大人。[18]

10月に卸売市場(青果)を退職した後の半年間、休日どころか24時間以上会社から離れられることが無かった約三年間の揺り返しか遊び倒しました。‼️

退職してすぐに職安に行って必要な諸々の手続きを終えてからは本当にのんびり過ごしました。

 

数年ぶりに家族と一緒に朝ごはんを食べて

数年ぶりに一晩電話がならないまま眠って

数年ぶりに泊りがけで県外に遊びに行って

数年ぶりにテレビで「めざましテレビ」を見ました👀笑笑

めざましテレビ始まる前から毎日出勤してたから。。

 

退職した時の貯金は約150万円くらい。

焦って就活しなくても当分はのんびり出来るなとおもわれました。とにかくその時はぐったりげっそりしてたので休みたかったのです。

....ただ、働いている時だったら勝手に給料から引き落とされていく各種税金や年金や保険。

通帳に記載される時にはそれらが全部引き落とされた後の「手取り」が載るだけだから大して気にならないけど「無職」になってもがりがり引き落とされていくそれらの多さに肝を冷やしたのを覚えています。

 

今まで時間を合わせることが出来なかった友達とも久々に飲みにいって(キャバクラに行くのはもう辞めました)、買ったきりで本棚に並べてあった本を読んで(五十冊以上ありました)、シーズンではなかったけれど台湾旅行にも行ってきました🛩🇹🇭

 

あっという間に年が明けて、3月か4月くらいからはまた働き出そうと決めていたので就活再開!

大学時代の就活のときは、世に言う「リーマン・ショック」にぶち当たった世代の自分からするとその時は比較的、仕事は探しやすかったように思いました。製造、土木、サービス、コンサルタント、営業、運輸、諸々の職種がすぐに見つかりました。

 

さて、なにをやろうかな?

 

専門的な資格が必要なのは...難しい。

市場で使ってた資格ってフォークリフトくらいだし「競り人」の資格を取ってあったけど、これは他ではなんにも役にたたないし...大学時代に取ったパソコン系の資格はほとんど内容忘れたし....今まで営業職一辺倒でやってきたからこんどは他のことをやってみよう!

...なんて薄い決意をしながら興味があるとこはどこでも応募してみました。

 

その中でも一つ、目に止まったところがあってそこそこ距離のあるその会社まで面接を受けに行きました。結果は...

 

 

 

 

 

親から虐待されて育った大人。[17]

2年半、累計¥140,000,000。

 

 

相変わらず超過労ワークをしながらキャバクラに通い、キャバ嬢から「お誕生日プレゼントが欲しいな💕」なんて言われて14万したLVの財布をプレゼントしたり、同伴でご飯を食べて(奢って)からお店に行く途中で女性向け下着屋さんに入ってねだられてピンクのフリフリの上下セットの下着を買ったりしながら(キャバ嬢の笑顔 priceless‼️)気がつくと市場ではたらきだしてから2度目の夏が過ぎていました。

 

入社した当初には各地に散らされた13人いた新卒の営業職も使い物にならなくて左遷されたり過労と重圧と凄まじいブラック労働で退職していったりして残っていたのは自分含めて6人だけ(本社、支社含む)。

元々、周りに比べて評価もスペックも低くて碌に期待もされてなかったし誰からも軽んじられていた自分は、なぜだか生き残ってしまっていました笑笑

 

コミュ力もたいしてないし、騒々しくて荒っぽい市場の文化にもそんなに馴染めてなくて周りからも「お前は市場のバイヤーじゃなくて銀行員か教師って感じだよな」とよく言われていました。

営業職向きの人種ではけしてないよね。と、

 

それでもどんなに朝早くても一度も遅刻も欠席もしたこともなかったしバカはバカ也に一生懸命やってはいたのでそこそこ気にいってもらっていた取引相手もチラホラいました。

 職場の環境が激務でブラックなぶん同じ部署の仲間たちの結束力は強くて夜遅くまで働いていると、課長や部長が出前でピザをとってくれたり牛丼買ってきてくれたりしてみんなで食べたりしていました。なかなか楽しかったな

 

 

ただ、身体が持たない

 

 

際限なく押し寄せてくる膨大な品物と一年先までびっしり埋まっている売上計画。日本の其処彼処の港に置いてある自分の在庫と、これから税関を抜けて遠い国から入ってくる新しい品物たち。

 

24時間関係なしに鳴り止まない取引相手との電話で2年弱のあいだ、熟睡したこともありませんでした。

 

そして人(職員)も足りない

 

自分の扱っていたのはいうなれば細々とした木っ端品目で部内の売上げのなかでは大した比率はありません。(青果市場では野菜は売上げはそれぞれ(ほぼ)バランスよく配分されていますが、果実はリンゴ、柑橘類、いちご、スイカ、葡萄当の所謂、大品目にものすごく偏っていました)専門分野の「輸入果実」はコストがかかりすぎるので取扱量は200t以上あっても利鞘は本当に僅かなものでした。

 

よく上司から「市場のバイヤーは、一人で年間4億売上げてやっと一人前だ」と言われていましたが自分はまるっきりそれには届きませんでした。

 

自分のスペックや労働環境、周りからの評価も含めて「営業職」にあまり向いていないことはわかりきっていたけど、とにかく「一億円売りあげるまでは頑張ろう」と思っていました。

「一億円」と書くとなんか凄そうですが市場内では情けないほど低い目標値でした笑

 

勤めだしてからやっとその低い目標に到達できたのは2年目の夏の終わり頃。ちょうど盆商戦が終わって西瓜地獄から売り場の品物が葡萄に変わっていくくらいの時期でした🍉⇨🍇

 

それとなく上司には退職することを匂わせていたので話をすると割とスムーズに進み、「俺も、◯◯(僕)はよく頑張っていたけど他のことした方が向いてると思うよ」とありがたいお言葉をいただき、その年の10月に市場は卒業しました。

 

勤務していた日数はせいぜい2年と半年くらい。ただ、ほぼ無給で毎日15,6時間働いていたので実際の勤務期間は3,4年分くらいはあったと思います。

ドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」にいた気分。笑

 

細々と記録をつけていた合計の売上額は1億4000万円。本当に微々たるものですがまぁ目標は達成。

突然いなくなったような人もなかにはいたので、自分はそれなりに円満に退職することができました。

 

他にもいろいろあるキャバクラエピソードとか、飲み会で無理やり赤霧島飲まされて急性アルコール中毒になったり、二日酔いが酷すぎて病院で点滴してもらったり、パイナップル腐らせて何十万か自賠償したりとかいろいろあったのですがもう書ききれないので「市場時代」はこれでおしまい。

 

この頃はまだ全く全然、介護職の「か」の字も頭にありませんでした。

 

さて、次はなに(仕事)をやろうかな?

 

 

 

 

僕が、5年間介護職をやってわかった事。

気付いた事①

介護職はやらない方がいい。

 

気付いた事②

「長生き」は必ずしも「幸せ」な事ではない。

 

気付いた事③

事実上、既に詰んでいる。

 

気付いた事④

状況はもう改善されない(出来ない)。

 

気付いた事⑤

高齢で独身の人間にろくな奴はいない(利用者・職員ともに)。

 

気付いた事⑥

「いい人」や、「優しい人」ほど介護職に向いていない。つうかこの業界にはいない。

 

気付いた事⑦

人間はきたない。未来は昏い。

 

気付いた事⑧

「やり甲斐」だけではやりきれない。

 

気付いた事⑨

上手に生きることが出来る人の共通点は結局、「コミュ力」と「群れを成す」能力の二つ。

 

気付いた事⑩

介護業界の上層部(企業、経営者、管理者)はサイコパスが多い。現場の労働者(医療者含む)は酷使して使い捨てが当たり前。

 

気付いた事[11]

「ご利用者様」、「想い」を引き合いに出せばなんでも許される。無敵の免罪符!!

 

気付いた事[12]

こんなことをわざわざ書き綴っている自分が一番の底辺。

親から虐待されて育った大人。[16]

キャバクラにどハマる。

 

今(介護職)に比べれば、比較にならないくらいに給料のよかった市場。

 決して残業代がまともに支払われる会社ではなかったけれど、それでも当時22〜25才の頃の自分の月収は手取りで22〜26万円程度ありました。夏季と冬季にボーナスも支給されていたし年度末には10万円くらいの謎賞与(年末調整金?)というものもありました。

 

研修が終わって実家に戻って来ていたため家賃やら光熱費もかからない!月に¥30,000程度を家に入れていただけであとは丸々、可処分所得

(((o(*゚▽゚*)o)))!!!

 

毎月、3〜5万程度を貯金用の定期預金の口座に寄せていましたがそれでも15万近くのお金が手元に残りました。

なんてステキな時代だったのでしょう....

 

 

ただ、つかう暇がない。。

 

 

 

1年365日中360日は会社に出勤。

平日は基本的に5時〜20,21時くらいまでは仕事中。そうなるとどこかに遊びに行くとか友達と旅行に行くとかは不可能でした。周りの連中はパチンコやらスロットで毎月すっからかんにして月末になると「金貸して」と言ってくる始末でしたがギャンブルとタバコが大嫌いな僕は特に使い道がありません。

 

午前中が休みになる、たまの水曜と日曜の前の夜、火曜と土曜の夜に上司や先輩や同僚と飲みに行くくらいしかお金を使う機会がありませんでした。

 

お酒は体質なのか そこそこ飲める方だったのでついて歩くのは苦にならなかったのですが(たまには奢ってもらえたし)地方都市の田舎の繁華街なんてタカが知れています。

 

 だがしかし!!

よく二次会で連れていかれていた上司や先輩の贔屓の「キャバクラ」というものにどハマりました笑笑

 

共学の高校を出て、短大→大学と進学して就職した自分は、それまでも身の回りには女性はいくらでもいましたが実際、特に関わったことがありませんでした。所謂「女友達」というのも高校時代に生徒会関係で数人いたくらい。大学時代はゼミの中でチラホラ話しをする人がいた程度、当然..

 

彼女いない歴=年齢

 

の童貞野郎だったのでキャバクラはとてつもなくカルチャーショックだったのです!!

 

入れ替わり立ち代りやってきて、隣に座ってニコニコ話をしてくれる華やかで煌びやかな女の子たち!あれこれ話しをしてお酒を飲んで....

女耐性-255くらいの自分にとって、そもそも楽しげに女性と会話をしてもらえたのは人生初で、底辺負け犬野郎にとってそこはまさに楽園(ユートピア)でした。

 

普通に既婚の上司(40代)や割と年の近かった先輩たちもそれぞれ贔屓のお店があって「指名」しているお気に入りのキャバ嬢がいる。

みんな時間は無くてもお金はあるしウサを晴らすのは飲みに来るくらいしかなかった環境だったので、特になんの違和感もなくそれが「普通」な世界でした。

 

瞬く間にキャバクラに通うようになった自分はお気に入りのお店が二店舗あって一つはやや、低価格なところ。

もう一つは、この街の中では「四天王(笑)」の一角を張るそこそこの有名店でした。

それぞれに「指名」している娘がいてほぼ毎週遊びに行っていました。

 

簡単にキャバクラのシステムを説明すると、曜日や入店した時間/人数にもよりますが1セット(だいたい50〜60分)の間、席に着いて(テーブルに置いてあるお酒、焼酎、ブランデー等はだいたい料金込)お酒を飲んだり軽食を注文したりしながら、テーブルを回って来るキャスト(キャバ嬢)の子たちとあれこれお喋りしたり盛り上がったりするというもので、お店にいる時間(1セットごとの時間料金)によってお金が発生します。

 金曜や土曜なんかの客が多くて繁盛する曜日の日は料金が割高になっていて、だいたいお店が開くのが20時前後からなのですが、入店する時間が遅くなるとそれも割高、一人で入店するよりも大勢で入店した方が一人頭のセット料金は安くなる..のが平均的でした。

 

所謂「延長(1セット分の時間が過ぎた後にもう1セット時間を伸ばす)」をしたり、お気に入りのキャバ嬢を隣にキープしておくこと→「指名」をしたりすると料金は膨らんでいきます。

お客が飲むお酒はセット料金内なので追加はかからないけどキャバ嬢の飲み物は別料金で注文するのでこれも追加料金が発生していきます。

 

自分を指名してくれるお客を沢山抱えていて沢山注文してもらってお店に沢山お金を落とさせることが出来るキャバ嬢がよく聞く「No.1キャバ嬢」というもので、そういった手練手管とコミュ力を併せ持つ人たちのことは普通に凄いし尊敬します。

 

人によっては昼間は別の仕事をしていて夜はキャバ嬢やってるよーって人も大勢いました。OLさんから大学生から今思えば、看護師さんに介護職やら...

 

彼女たちは「源氏名(げんじな)」というキャバ嬢としての芸名を持っていて、年齢やら未婚既婚も「そういう設定」の上で働いておられます。

 

なので、「24歳です🌟(キャピッ)」って人が実際は30代なのもざらだし「彼氏いません💕(キラキラ)」な人にも大抵、彼氏か旦那がいます。

人によっては、月収100万円近く稼いでいる人も(当時は)珍しくなかったようです。

 

仲間と連れたって遊びに行くこともあったし、なんなら一人で(!)行くこともありましたが一回飲みに行って入店するとだいたい1回は延長するから料金は(安くて)¥20,000〜30,000程度。それを毎週、月に4回程度していると年間にキャバクラにかける金額はざっと¥1,000,000を超えていました。。

 

完全に狂気の世界ですが、当時はお金があったので全然苦にならなかったしなんなら「週末にまた飲みに行くから頑張ろう‼️」と思っていたくらいにはモチベーションになっていました。

ディメンシア・チェイサー

医療法人時代。

 

基本的に、認知症患者というのはいま、自分がどこにいてなにをしているのか、ここがどこなのかということがわかりません。

かなりざっくりですがこのことを「見当識障害」と言います。

 

健常者(?)の認識に置き換えると、介護施設等に入居させられた本人たちの感覚は、理由もわからず突然拉致されて、言葉も通じない誰も知る人の居ない、遠い異国の地にいきなり放り出されて閉じ込められている。。

...というのが近いようです

 

歩いていたらいきなり車に押し込まれて、気がついたら北朝鮮強制収容所に放り込まれていた.....当然言葉も通じない......イヤでしょ?

 

なので、彼ら彼女らの行う「徘徊」というのは自分たちがその状況に置かれたことを想定してみると特になんの不思議もないことなのです。

 

イメージの悪いこの「徘徊」という言葉、最近では使うの辞めよう!な流れが強い傾向にあるようです。

 

痴呆→認知症

精神分裂病統合失調症

人格障害→パーソナリティ障害

インポテンツ→ED

徘徊→???

 

どんな新しい単語が生まれてくるのか楽しみですね笑笑

 

たしか、外国産でしたが「障がい児」のことを「チャレンジド」とかいう、わけわかんねー造語に置き換えようとしていたのは完全に失敗したようです。

 

ただ、(ほぼ)身体も不自由で、危険を認識する能力が失われている認知症高齢者の徘徊をそのまま放置しておくわけにはいきません。

介護職の業務のそこそこ高い割合を占めるのが「見守り」と呼ばれるこれらの「危険行為」を予防することなのです。

 

もっと専門的な言い方が好まれるなら、「認知症の中核症状から生じるBPSDを抑制/軽減することにより患者本人及び周囲の保護」をすることが「見守り」です(批判を浴びるであろう認識な自覚はあります)

 

線引きが難しい(と、僕は思っている)のですが基本的に介護職は対象(入居者/認知症患者)の行動を阻害する行為はしてはいけないことになっています。

なので最も積極的な対応でも、せいぜい周囲の「環境整備」か後ろを付いて歩くくらいなものなのです。

 

もしも、本当に対象の安全を考えるのであればある程度の「抑制」は必要なんじゃないの?というのはあくまで僕個人の意見ですが、いまの介護業界ではこれはまるっきり許されざる思想で、間違いなく異端審問にかけられて火刑に処される危険思想なのです。

 

車に乗るときはシートベルトを締めないと罰せられます。

何才以下の子供ならチャイルドシートに乗せることを義務付けられています。これは行為自体は「体の自由を奪っている」ので「身体拘束」なのですが、あくまで「安全のための義務」なので身体拘束(=虐待)だと認識する人はいません。

 

ですが、より危険度の高いはずの「認知症」の「体の不自由」な老人相手だとこれらの行いは「身体拘束=虐待」ということになっています。

....ここら辺に個人的には過剰な「虐待アレルギー」を感じるのですがそれも危険思考なのでここでくらいしか言えません。

 

それも、社会全体からの介護業界と介護職への圧倒的な不信感と嫌悪感から来ているのではないかと(個人的に)思います。

「拘束」というと世の中の人たちは「鎖でがんじがらめにしてベッドに縛り付けておく」、か「縄でぐるぐる巻いて柱に繋いでおく」ことを思い浮かべるのでしょうがなにもそんなことしません。。

 

なにが虐待でなにがそうでないのかは、女性様の言う「セクハラ」と同じで「そう思われたらなんでもそう」な状態なので危険きわまりないと(個人的に)思います。

話がズレますが、弱者が弱さを盾にとってそこに悪意を上乗せさせると最上のグランギニョル(残酷劇)が生まれます。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

数年前、深夜 午前2時

 

??「助けてぇ、疲れた、苦しい、もう歩けない、助けてぇ」

 

??「◯◯さん!お願いだからもう止まって!夜中だよ?ベッドに戻ってやすみましょうっっ(泣)」

 

神様「疲れたあ苦しい助けてえ助けてえ」

 

...たしかⅢa級の認知症だった足の不自由な神様が真夜中に鼻血をダラダラ垂れ流しながら押し車を押してふらふらになりながら廊下やらフロアを徘徊しておられました。

 

鼻をほじくる癖があり、だけど当然辞めろといって理解できるものでもないので執拗に鼻に指を突っ込んでほじくり返し、鼻血を垂れ流しながら歩き回ります。

 

着ている服やベッドの布団やシーツは血塗れ。昼間から何回も何回も更衣をしてシーツ交換をしてもまたすぐに血塗れ。なにかもう失血を心配した方がいいんじゃないの?と思うくらい辺りを血に染めながら徘徊し続けます。

自分で、「苦しい疲れた」と言っているのだから歩き回るのをやめればいいのにふらふらになりながら歩き続けます。

 

ただでさえ歩行不安定なのに疲労と失血で転倒でもされたら救いようがありません。しかも夜中に...

 

この時、勤めていたのは医療法人内の老健で4階構造の施設内に入居者は92名。(1階はデイサービス用)

 

夜勤は4人でまわす勤務体系でしたが他の階も手一杯で応援を呼んだりなんてできません。当時、やっと夜勤をやりだしたばかりの僕は泣きながらその徘徊する狂える神のあとをついてまわって床に垂れた鼻血を拭き取っている女の先輩を呆然とみていました。

 

1人が1人につきっきりになっている間にもそこらじゅうでナースコールは鳴りまくります。

 

トイレに連れてけ、布団をかけ直せ、部屋が暑い/寒い。今は何時だ、飯はまだか、家の誰それに電話をかけろ、すぐに呼べ...あとは特に意味や用事も無いものも。

 

時間毎の巡視やパット交換もしなきゃいけないし、それ以外にも諸々の物品補充や清掃やカルテの記載、やることは山ほどあります。

 

徘徊は認知症の中核症状から派生するBPSDなので対応の仕方次第で止める/軽減させることが出来る。だからそれが出来ないのは環境か、介護職の技量の問題....とはよく言われますが限度があります。

全てを野放図にしておくことを強要されているのにその中で、必要な人員基準にも達していないのにその中で、一切のアクシデントもインシデントも発生させず、神々(利用者)の要望は全て満たし、神々(上層部/管理者)の要望も全て満たし、何かあれば責任は全部自分。と言われる現場の奴隷たち(介護職)は、なにかもう虐待されているのは自分たちなんじゃないかと思っています。

 

ぼろぼろになりながら徘徊している老人のあとを、更にぼろぼろになりながら付いて回り床に落ちる鼻血を泣きながら拭き取ってまわるその先輩の姿をみながらもしかして、ここは地獄なんじゃないのか?と考えたりもしました。

 

なにも「拘束」と言わなくても鼻をほじくり返して鼻血を垂れ流すのを止める手立てをしてもいいのではないでしょうか?「疲れた苦しい助けてえ」と喚き散らしながら歩き続けるこの狂える神を鎮める手段をとってもいいのではないでしょうか?

 

「この夜」から早数年

 

資格も手にしたし経験も積んだ、だけど何が正しくて何が間違っているのか、誰が正しくて誰が間違っているのか未だに僕にはわかりません。

誰も彼もが苦痛と絶望と諦念に晒されつづけ引き裂かれ続けるこの世界、これからもずっとこのままなのでしょうか?

 

踠き苦しみながら這いずりまわり続ければその先には...

あるいは、いつか、きっと、、

 

fin.