孤高の底辺。うんこ拭き(介護福祉士)おじさんの戯言ブログ💩:®️

“奴隷(介護職)”をクビになって、“社畜(葬祭屋)”になってまた介護職に復職したおっさんの随筆集✍️

親から虐待されて育った大人。⑧

地方公務員だった父親は仕事で使う新しい資格(ゴリゴリの専門職)を取得するために東京にある養成学校(?)的なところに半年間行くことになりました...行っていました??

..... ここら辺の時系列がどうにもあやふやなのですが、じぶんが大学(短大)に進学するくらいの時期で弟の高校受験と被っていた時期だったのは間違いありません

 

 

 

底辺公立高校の中でなんとか成績を学年1〜5位以内の範囲をキープしていたじぶんは、学校推薦で近県にあるそこそこ名の知れていた(大学駅伝とかで有名)三流(?)大学を受験することがほぼ決まっていました

 特に将来なりたい職業や明確な目標があったわけではなかったけれど「家から離れられる」という希望をなんとはなしに抱いていました

 地元はそれなりに好きだし母親さえいなければ家も好きだったんだけど...

 

だけどその希望は全く予想だにしない方向から突然、瓦解することになりました。まるで運命のように。

 

「家の中」と「家の外」を使い分けられていた母親も何故だかその境界線がぐらついてきたのかあやふやになってきたのか、いろいろなことがままならなくなっていました

 

 真性のサイコパスでありとあらゆる厄災と精神疾患を詰め込んだパンドラの匣だった母親は崩壊しつつありました

 

古い言い方をすれば精神分裂病。今風な言い方をすれば統合失調症

つまりトーシツ。

 

 

 

わりと長いこと続いていたらしい父親の不倫が発覚したからです

 

 

 

資格を取りに東京の養成学校(?)に行っていた時からか?それ以前からか?どこでどう知り合ったかは知らないけれど、年上の看護師の愛人がいたことが発覚しました。

 

そりゃあ家の中がこんなんで自分の嫁があんなのだったら嫌になるの当たり前だよねえ。。

 

普段から不在なことが多いし「仕事」といえばどこでなにをしていようが誰にもわかりません。

 長いこと家を空けて学校通ってたわけだし。

 

それもそこそこの借金をこさえて愛人と旅行三昧www

 

どこでどうやって手に入れてきたのかわからないけど愛人の看護師からもらったお手紙やらツーショット写真やらを母親から自分たち兄弟は突然見せられましたwww www

 

しかもお相手の看護師様には結婚相手がいて結婚式間近 www www

なんだこれ www www

こんなの草生えるわ www www

 

つーか愛人さんの結婚式に父親は出席していて親族の送迎役を買って出ていたそうです www

 

一途か!!ロマンチックか!!www

 

もうわけがわからない www

自分たちが家の中で散々母親にいたぶられていた間、父親は外で女作って旅行三昧www🚅✈️♨️

 

ウケる🤣マジ卍www www卍解!!!

....今風な言い方をするとこんな感じかな笑笑笑

 

自分たち兄弟は一人ずつ母親の前で父親が愛人の看護師から受け取った手紙を音読させられました。

テラシュール www

 

どうやら探偵だかなんだかを雇っていたらしくて証拠をつかんだ母親がお相手の看護師様と直談判。

 

 少なくない慰謝料を手に入れたようなのですがそれは全額、父親が愛人との逢瀬の為に作った借金の返済へ www

うんとこしょ wwwどっこいしょ www

それでも返済できません www www

 

さよなら俺の進学。さよなら俺の大学生活。

 

 

親から虐待されて育った大人。⑦

5歳年下の弟。

 勉強はあんまりできなかったけどまぁまぁ背が高くてがっしりした大きな身体 誰にでも優しい子で合気道の黒帯! 部活動だかサークルだかでテニスをやっていたスポーツマンで、クラスでも人気者!!

 

中学時代、底辺陰キャで運動音痴でスクールカースト下層民の兄とは真逆のタイプ。

 

だけど間違いなく母親から一番長く一番痛めつけられていたのは彼でした

 要領よく振舞ってなるべくじぶんはダメージを与えられない位置をキープしていた妹や、怪我と流血は一番多かったけど反抗的だった自分とは違い、末っ子なせいか一番強く支配されて一番そばに縛り付けられていたのも彼でした

 

中・校生時代になると殆ど家に居ることのなかった妹や学校から帰って来るとすぐにバイトに向かうじぶんがいなくなると家には祖母と母親と弟が取り残されます

 

同じ家に住んでいても祖母と自分たち兄弟の接触を禁じていた母親によって(口をきくことも許されていませんでした)家にいてもおばあちゃんと弟は接触出来ません

 おばあちゃんはいつも「私が口を出すと私のいないところでお前たちが痛めつけられる」と言っていました

 

妹とじぶんがいなくなると父親の勤務の日には事実上弟は母親と二人きりになってしまいます

 

「手伝い」やら「肩揉み」やらで縛り付けられているのはまだいい方で誰の目も届かないところでどんな目にあわされていたかははっきりと想像できました。

 

どうにか続けさせてもらえていた習い事の合気道も事あるごとに「辞めさせるぞ」と脅され重箱の隅をつついて母親からの吊るし上げの材料にされていました。

 

じぶんがアルバイトに向かうために玄関で靴を履いているといつも寄ってきて、「地獄の時間だ」と言って泣いていました

 

自分と違って立派な体つきで自分と違って人気者の弟がメソメソメソメソ、ウジウジウジウジ。。

 

居た堪れなくて居た堪れなくて、 しかたありませんでした

 じぶんが家に居る時なら、やられている時に割って入って代わりに殴られてやるくらいのことは出来ましたが不在の時はどうしようもありませんでした

 じぶんは一番上で長男なのに下の妹や弟を守ってあげることが殆ど出来ませんでした

 

ぼくたち兄弟は親から(母親から)受ける虐待でレイプされる以外のことは全て受けてきた。今でもはっきりとそう思っています

 

 

自分と妹はなんとか公立高校に入学しましたがそれが難しかった弟は(成績的なこと含め)それを槍玉に挙げられて本当に痛々しいほど痛めつけられていました

 

その頃の母親は、突然奇声をあげて叫び出す、夜中に突然喚き散らす、ふつうに立ったり歩いていたのに急に倒れるなどなど、今までと違うオカシさを発揮しだしていました。

 

もうなにが起こってもなにも感じなくなっていたじぶんは「そのままあらん限り苦しんで、のたうちまわって死んでくれればいいのに」と思っていました。

 

外の世界の事はほとんどなにも知らなかったじぶんは「これ以上酷くなることはないだろう」と常々思っていたのですが自分の知らないところですぐ近くで、気付かないうちに大きな大きな爆弾の導火線に火がついていたことを目の前に叩きつけられることになったのはこの直ぐ後のことでした。

 

 

親から虐待されて育った大人。⑥

高校時代、黄金時代。

 

 凄まじく成績の悪かった僕は(5教科合計で200点に届きませんでした)、それでも特に何も問題を起こした事もなかったしほぼ無遅刻無欠席だったので担任の先生から地元の公立高校への推薦を貰うことが出来ました

 

 日頃から散々「私立なんて無理、行ったらどうなるか分かってるよな?」と脅されていたじぶんは喜んで受けました

 

 地元で一番評判の悪い「公立の中の最底辺」でしたが...

田舎あるあるでよく「高校どこ出たの?」と聞かれるのですが今でも名前を出すとドン引きされるところでした

 

 リアルガチで日本で一番有名な不良漫画に出てくる学校のモデルになった(事実らしい)一流の底辺不良校でした

 

じぶんら世代だとジャンプに載ってた「べるぜバブ」の「石矢魔高校」(?)やら「クローズ」に出てきた「鈴蘭高校」(?)みたいな感じ。。

 

 校内や学校の周りはタバコの吸い殻だらけ「ドラマの人かな?」って感じの不良が跋扈する魔境でした

 

 電車通学で30分程度だったのですが初登校の新入生達が正門からぞろぞろ列をなしているのを窓から乗り出したり屋根の上から眺めている「いかにも」な先輩方。

 

一目で「あっ、間違えたな」と気付きました

 

 クラスの周りの人たちを見て人生で初めて「あっ、勉強ってしたほうがいいな」と気付きました

 

 中学時代、全然やらなかったしやり方もわからなかった勉強をここでめっちゃ頑張りました。独学で。

 

 元々もの凄くレベルの低い高校だったので成績はすぐによくなりました

 学年が二、三年の時には試験の成績はほぼ学年一位でした

 

中学時代には卓球部だった部活動も新しく「弓道部」に入部して(当時はまだサークルでしたけど)二年生の時には部長になっていました

 

高校デビューで「不良」になっていたやつも大勢いたみたいだけど全く不良じゃないむしろ底辺陰キャだった自分でもそこでは「成績学年一位の優等生」という奇跡のようなポジションに付けたのでそれをフル活用しました

 

 試験の前にはあれこれ聞きに来る不良の皆さんに範囲やら勉強を教える

 漫画も貸すし誰にでも優しくニコニコする。

 

不良グループには近づかないで連むのは誘って同じ「弓道部」に入ってもらったクラスメイトと所謂「オタク」の連中

 

 ガンダムやら格ゲーやらには全く興味なかったけど(そもそも知らないし)そこそこ友達を作ることができました

 

 

 「鶏口となるも牛後となるなかれ」

 むかしの人はいいこと言いますね

 

 

三十路を超した今でも主に遊びに行ったり飲みに行ったりするのは高校時代の友人達です。 県外に出てる人も多いし自分の仕事の関係上なかなか時間を合わせづらいけれど....

 

部活やって生徒会活動やって学園祭の役員をやってアルバイトもするようになって、学校の帰りには連れとゲーセンによって....

 家にいることがほとんどなくなったので極力母親と顔を合わせないようにしていました。 三つ下の妹も同じく

 

「高校を卒業したら早く、家を出よう。」

 漠然とそんなことを考えていたのを覚えています

 

そんな中、相変わらず不在の父親や家に居ることの少なくなったじぶんや妹のせいで五つ下の弟がとても辛い目にあっていることには全く気が付きませんでした

 

親から虐待されて育った大人。⑤

 

まだ小さかった弟が牛乳を零したのがその場にいたじぶんが見ていなかったせいだと近くにあったプラスチック製のハンガーを投げつけられて身体に当たって割れたハンガーの先で太腿のあたりを切り裂いて血を流したこと

 

殴られて鼻血を出して垂れた血で服が汚れたから「それを誰が洗濯するんだ」とまた余計に殴られたこと

 

 何をしたかは覚えていないけれど夜中に怒鳴り散らされていて母親が席を外した隙に眠ってしまったじぶんは風呂場に引き摺られていってパジャマを着たまま頭からひたすら水を被せられました

冷たい。寒い。苦しい。

 季節は真冬、外は雪、ここは寒冷地。

 

 どこかに外出した際は出先での振る舞いや態度や、口にしたこと、動きを家に帰ってきてから、あげつらわれ吊るし上げられます。

 睡眠時間も食事も取れせてもらえません。

 

 妹は昼間から酒を飲んで猛り狂っている母親に包丁を突きつけられて買い物に行かされて母親の食事をつくっていました

 

 いつも一番かわいそうな一番下の弟は要領が悪かったせいもあり、いつも母親の近くに縛り付けられていて一度は車でどこかの山に連れていかれ置き去りにされて知らない老夫婦に拾われて家に送り届けてもらったことがあるそうです

 

 父親が不在の時に部屋に閉じ込められ食事も取らせてもらえなかったじぶんは母親が妹と弟を連れて実家に出かけている隙におばあちゃんがこっそり父親に連絡をしてくれて父親が買ってきてくれたお弁当を隠れて食べていました

 

真冬の夜に裸足で外に放り出された弟は、玄関の前のコンクリートに濡れていた足の裏が凍りついて張り付きました。それを無理やりべりべりと引き剝がしながら家に入れてくださいと懇願したため辺りは血だらけ、キレた母親に家の中に引きずり込まれてさらに折檻を受けました

 

食事も与えられずに、自分の衣類は洗濯もしてもらえなかったじぶんはいつも同じ服(下着も)を着て学校に行っていました。たまに母親が床に投げ捨てる残飯を拾って食べていました。

 

四六時中、怒鳴り散らし喚き散らしている母親は「お前達のせいでわたしが近所からおかしいと思われる」と言ってさらに暴力性を増していきました。

 

 

これは氷山の一角。

 言い出したらきりがありません。

痛めつけた方は痛めつけたことを忘れても痛めつけられた方は痛めつけられたことをいつまでも忘れません。

 

誰にも話しませんが僕は今でもよく左腕が痛みます。

本当に痛んでいるのか幻痛なのか自分でもわからないけれどじぶんは、これは幼い頃に床に叩きつけられて骨折したあの時のせいだと今でも信じています

 

30年以上経った今でも痛みが消えないのであの時の怒りと憎しみも全く衰えません

 

理解してもらおうとは全く思わないけれどいつでも憎悪と怒りに焼かれ続けています

 

僕はできる事なら生まれてきたくありませんでした

 

いい年をした今でも自分の人生と引き換えにしてでも母親を殺してやりたいと心の底から強く願っています。

呪っています。

 

じぶんの状態は「アダルトチルドレン」というものなんだろうというのも自覚しています

 

痛みは消えず憎悪は深まり怒りは煮え滾り時は癒さず、地獄はいつまでも終わりません

親から虐待されて育った大人。④

 

相変わらず、殴られたり蹴られたり叩きつけられたり縛り上げられたり家から締め出されたり置き去りにされたり閉じ込められたり食事も何も与えられなかったりしながら真っ暗な幼少期を過ごした自分も小学校に入学しました

 

不思議でしょうがないのですが、人の目の届かないところでは常にそういう振る舞いをしていた母親は何故だか外面だけは凄まじくよくてなんなら「教育者のお手本」みたいなイメージを持たれていたそうです

 

誰もやりたがらない保護者会?だかPTAの役員をいつでも大喜びで引き受けていて自分たち兄弟が小中学生の時には入学式や卒業式の時にいつも「保護者代表」やら「役員挨拶」みたいなので壇上で演説をする人でした

 

授業参観の時には必ず着付けをして髪をセットしてお高い着物を着て出席。

いかにも語尾に「〜ザマス」ってつけて話をしそうな人でした

 

所謂「ママカースト」的なやつで上位の位置にいたらしくて、取り巻きのクラスメイトの母親たちがいつも周りにたくさんいました

 

家にいるときはいつでも四六時中、仲のいいママ友?に電話をかけまくり1時間でも2時間でもしゃべり倒していました

 

家事をしたり食事をつくったりはしませんでした

 自分たち兄弟は母親の逆鱗に触れないように常にコソコソビクビクしながら暮らしていました

 食べるものはいつも母親の実家の祖父母の家で「生協」で取り寄せていたレトルトと冷凍食品のみ。

 自己顕示欲を満たすことと外面を良くすること以外に興味がなかった母親はめんどくさくて買い物に行ったり家事をするのは嫌だったようです。

 なので、自分には「女性・母親が主に家事をする」という習慣だか、文化だかがイマイチよく分かりません

 

それでも田舎の愚民しかいない糞地域でも中には「あいつはどこかおかしい」と気付いていたひともいて「アンチ」的な勢力もあったことを後から聞きました

 

特にほかのPTAやらの役員をしていたまともで「普通」の人たち。

 学校が終わって子供達が帰ってきた夕方ごろからいきなり電話をかけてきて、1時間でも2時間でも喋り倒すこの「異常者」に不信感や不快感を持っていたり「本性」を見抜いて徹底的に避けていたひとも少なくなかったそうです

 

家の中では虐待とネグレクトの限りを尽くしているのに、外では「教育者のお手本」の母親。それに気づかずありがたがる馬鹿どもとなにかおかしいと気付きながらも見て見ぬふりの連中

 

こどもだった自分からすると何もかもが信じられなくて馬鹿馬鹿しい茶番にしか見えませんでした

 

増えていくのは、不信感と恐怖と憎悪と怒りと傷痕だけ

 

義務教育時代のじぶんは無口無表情無関心で目つきと成績だけはやたらと悪い孤立した生徒 ただやたらと本は読む

 

 友達も少しはいたような気がしますがADHD全開だったその頃のことはあまり記憶にありません

 

孤立していたからいじめられていたような気がしないでもなかったのですが何がいじめかもよくわからなかったので...

 

物が無くなったり廊下ですれ違い様に知らない子から悪口を言われたり、給食袋がなぜか校庭の隅で泥だらけになって発見されたり...

うん!人気者だったんだな!俺は。

 

誇大妄想や心疾患や創作や針小棒大なフィクションだと思われるのが当たり前でしょうが全部ほんとうのことです。

 

母親のことを普通の人と「違う」と思っていた理由、たぶん脳の構造からして人間じゃないんだと思うのですがとにかく感情の起伏が激しくていつ爆発のスイッチが入るかわかりません。

 AB型の人間ってみんなこうなのかな?と当時は思っていました。

 

だれでも自分に置き換えて考えればわかると思うのですが「キレる」という状態、脳の構造というか機能上、MAXの怒りってどうしたって維持するのは10分くらいが限界だそうなのですが、この人(人だなんて思ってないけれど)は数十分から数時間キレ続けます

 

 いったい、いつ息継ぎして一分間に何文字分怒鳴るの?というのを本当に数時間続けます。

一度怒りに火がついた後は数週間でも数ヶ月でも口をきかなくなります

冷戦ってやつ?www

 

自分たち兄弟を目の前に正座させて気がすむまで怒鳴り散らし、髪を引っ張り、頰をはたき、周りにあるものを手当たり次第に投げつけ(ゴミ屋敷なので弾丸には困りません)ます

 

途中から頭がクラクラしてきて、自分がなんで怒られていてここに座っているのかもわからなくなってきます。

それがまた火に油を注ぎます。

 

声が響いて聞こえたり遠くからに聞こえたり、目の前に座ってキレて喚き鳴らしている母親が大きく見えたり小さく見えたり、着ている服の模様がぐるぐる回り出したり伸びたり縮んだり。。

離人症(りじんしょう)」というそうです

 

自分も過呼吸になって泣いているのでうまく喋る事も息をする事も出来ません。  そんな地獄がしょっちゅう何時間でも何日でも続きました

 

親から虐待されて育った大人。③

世間一般では幼稚園、保育園というものは、乳幼児クラス、年少、年中、年長という流れになっているそうですね

よくわかりませんが

 

自分はなぜだか他の子たちより一年遅く年中組から入園したのを今でも覚えています ...人生の初めから出遅れてる感ありありです

 

すでにある程度出来上がっている枠組みの中に後から入って来た異物(発達障害気味) 馴染めるわけがありませんでした

 

生まれて初めて「他人」に接して「友達」を作らないといけない!!

 自分が一番上なので兄や姉がいなくてどうすればいいのかお手本になるものがありません。

 そこでも案の定、浮きまくっていたぼくは保育士や園長先生からしてみても「扱いにくい子供」だったようです

 

しかもちょくちょく顔や身体に痣やら傷やらを作ってやってくる園児...察してはいたでしょうが厄介極まりない

 

当時、児童相談所やら虐待防止やらの仕組みがあったかどうかはわかりませんが何一つ自分たち兄弟の助けになるものはありませんでした

 

そんな中で自分の記憶にある範囲で人生で初めて声をかけてくれた女の子、たしか「ゆかちゃん」だった気がするのだけれどその娘が家に遊びに来てくれることになりました!

 

通っていた保育園から家までは歩いてほんの五分程度。園児の足でもせいぜい10分くらいでした

 

生まれて初めての「友達」が家に遊びにくる!ぼくにとっては大事件だったのです!!

 

母親の実家以外との人づきあいがほとんど無く(そもそも親戚自体殆どいない)それ以外に家に人が来たりといったことも滅多になかったので、うちに外から人が来るというのはかなり珍しいことでした 。

 自分も他人の家に上がった経験は全然ありませんでした

 

なので、自分の家が今でいう「ゴミ屋敷」だったことにも当時まるっきり気が付いていませんでした

 

人の目なんて全くない「閉じた世界」の家の中。

足の踏み場もないくらい衣類やゴミが散乱し壁側には何に使うかよくわからないモノの山

 

一階と二階で祖父母とは住み分けていたので自分たちの普段の生活圏の二階はそれは酷い有様でした

 

「掃除」やら「片付け」をする人はいません

 母親にそんな能力もやる気もありませんでした。勝手にモノの位置を変えたり動かしたりすると、殴られます 蹴られます とても長い時間、怒鳴られなじられ、食事も取らせてもらえなくなります

 

「綺麗」とか「汚い」がよくわからなかった当時のじぶんはただ友達が初めて家に来るということにウキウキしていました 今思えばやたらと母親が焦っていました

 

家に入ってから若干引き気味の「ゆかちゃん」に「おもてなし」をしなくちゃと思ったらしい園児の自分は「お客さんが来たらお茶やらお菓子を出す」というのは知っていたようで押入れにしまって(放り込んで)あったジュースを取り出そうとしてしまいました

 

元々ゴミ屋敷の家の中、目に見える範囲だけでもメチャクチャなのに押入れの中なんていったら最悪です

 押入れというのは子供を折檻して閉じ込めるための檻のことです

 

押入れからジュースを取り出そうとする4、5歳だった自分にメチャクチャに汚い家の中のさらに汚い押入れの中を人目に晒そうとしている自分にその場にいた母親はキレました

 

「辞めなさい」と静止していたらしいのを聞こえていなかったのか、聞いていなかったのかした自分を、「ゆかちゃん」の見ている目の前で後ろからおもいっきり床に叩きつけました

 

何が起こったのかわかりません

突然、景色がひっくり返って初めて遊びに来てくれた女の子の目の前で無様にひっくり返っている自分

 

全身が痛かったです。特におかしな方向にねじりながら体の下に入っていた左腕が痛くて痛くて痛くて堪りませんでした

 

うずくまったまま「痛い痛い」と泣き叫ぶ自分にいつもと様子が違うことに焦った母親は急にオドオドしだしました

 

目の前で泣き叫ぶ自分にびっくりして「ゆかちゃん」も泣いていたのを覚えています

 

体の下敷きになっておかしな方向に曲がり動かすと泣き叫ぶ左腕に動揺した母親は仕事中だった父親を呼び戻すことにしたようです

 

それからのことはよく覚えていません 父親の運転する車に乗せられたじぶんは左腕を固定されながらどこかの病院に連れていかれました

 

狭い地元の中にある病院は、だいたい全部把握しているはずなのですがなぜだかいまでも、この時自分がどこの病院に連れていかれたのかが全然わかりません

 

走っている車の窓から見た夕方の暮れかけた空と、道路沿いに並んで植えてあった南国風の街路樹のある景色だけは今でも頭に焼き付いています

 

思い返してみるとレントゲンを撮影するためのものだったことがわかる赤い光に満たされた部屋の中に入れられたじぶんわ、若い医者(放射線技師?)に「動かしたらダメだよ」と言われ台の上に左腕を固定されました

 

痛くて怖くてしょうがなかったじぶんは泣きながら何度も腕を動かしてしまうので、何度も何度もその若い先生が部屋の中に入って来て腕の位置を調整されたのを覚えています

 

気がつくて左腕にはカチカチのギブスが巻かれていて、診察室でさっき撮影したらしい細い自分の腕のレントゲン写真を前にして父親と二人であーだこーだと説明を受けてその日は帰されたようです

 

驚いたことに家に帰ってみると「ゆかちゃん」はまだそこにいました

 

目の前で母親から床に叩きつけられて腕を骨折して無様に泣き叫んでいた同級生?を待っていてくれたのです

 

その後のことはもうよく覚えていません

 

当時の大人の感覚は自分にはよくわかりませんがまぁまぁの大怪我を負わせた虐待の「動かぬ証拠」がある状態でも(しかも目撃者付き)母親が咎められることはありませんでした

 

なぜだかいつのまにか左腕の骨折は「自分で勝手に転んだ」ことになっていて、通っていた保育園の中でもそれが共通認識になっていたようです

 

自分に大怪我を負わせた母親はむしろ「危なっかしくて手のかかる怪我をした粗忽な子供を献身的に世話をする母親」として周りからもてはやされているようにすら見えました

 

自己顕示欲と承認欲求の塊だったあいつはさぞ気持ちがよかったことでしょう

自分が今でも基本的に人間が大嫌いで(とくに女)を信用できないベースはこのころに造られたような気がします

 

母親はこれに味を占めました

「代理によるミュンヒハウゼン症候群」長ったらしい名前のこの病名を自分が知るのはもっとずっと未来の話でした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親から虐待されて育った大人。②

  交通マナーの悪さで有名なわりと寒冷地にある地方都市の生まれ

 子供の頃の自分の家族は地方公務員の父、パートやらなんやらで働いたりなかったりの母、父親方の祖父母、三つ下の妹、五つ下の弟に自分の七人家族でした

 

父親は24時間勤務の仕事をしているせいか殆ど家にいるのを見た覚えがありませんでした

 

僕の人生の中で最大のトラウマかつ最大の問題だったのが「母親」。

 これでも、いくつかの業種の仕事をしてそれぞれでいろんな人種と関わってきたけれどこれより「酷い」人間を僕は知りません

 

 今風の言い方をすれば「毒親」。

 本物のサイコパスを見たことがある人はそう多くはないと思いますが自分はソレに育てられました

 

自分の覚えている最初の記憶は、母親に両手をタオルで縛られて家の中をひきずりまわされて泣き叫んでいる場面です 当時の状況や家の中の景色からして1、2歳の頃だったような気がします

 

暮らしていた家は一軒家の二階建てで一階に台所やら風呂場やら祖父母の部屋があり祖父母は一階で生活。

 二階に両親や自分たちの部屋がある二世帯住宅でした

 

両親ともに一人っ子だったからか(当時、珍しいことをしりませんでした)普段は父方の両親と同居していた母親は市内にある自分の実家にそれはしょっちゃう帰っていました(週に3〜4回程度) 

自分たち兄弟からすると大好きなおじいちゃんおばあちゃんの家にしょっちゅう遊びに行けるので嬉しかったのです

 

母親は結婚するときに、父親の家(嫁ぎ先)に借金があったことを知らされずに結婚したらしくて「自分は騙された」、「売られた」だのとずっとずっと自分の両親に言っていたのだそうです。

 今思えば最初の最初から強い憎しみを持っていたのかもしれません

 

自分はいつも同居していた父方の祖母に預けられていて両親は共働きでした。

 いつもおばあちゃんが一緒に遊んでくれて一緒にご飯を食べていたのをなんとなく覚えています

 

そんな自分が普段、関わることのない母親と接するのは「三歳児ランド」(?)とかいう名前だった幼児の塾的なところに行く時だけでした

幼児の足ではそこそこ距離のあったような気がした駅前にある情操教育機関?的なところでした

今でいう鈴木メソードやECCジュニアみたいな...

 

同じ歳くらいの子供が集められて一緒に遊んだり先生から出される課題をやったり、楽器を演奏したり宿題を出されたり...それを後ろから保護者が見守っている...みたいな雰囲気だったのを覚えています

 

ただ、自分は本当に出来が悪かった。他の子達がすんなりこなす課題をいつまでも出来ずにグズグズやっていたり、じっとしていなきゃいけないときに動き回ったりと、とにかく浮いている子供でした

 

当時から協調性皆無だった自分はきっと、友達もいなかったし何やっても出来ないし楽しくないから、そこに行くのが嫌だったし、この塾の行き帰りに「どうして他の子が出来ることがお前には出来ないんだ!」、「恥をかかせるな」とキレて怒鳴り散らしながら前を歩く母親の後ろを泣きながら追って歩いていた記憶しかありません

 

もういい大人の今ならわかるけど典型的な発達障害ADHD気質のこどもでした

 

外で遊ぶよりも家の中で一人で積み木やレゴブロックで遊んでいたり本を読んでいるのが好きなこどもでした

 

普段家にいない父親や、父親の目の届かないところで自分たち兄弟にめちゃくちゃに暴力を振るう母親のことは怖くて怖くてしょうがなかったのでいつもおやつをくれたり、母親の虫の居所が悪いときにいつも逃げて行っていたおばあちゃんのことが大好きでした

 まだ世の中には「虐待」なんて単語はぜんぜん浸透していない頃でした

 

今でもおばあちゃんは、なんとなくドラえもんに出てくるのび太のおばあちゃんのような印象を持っています

 

はじめに書いた母親に家の中を手足を縛られて引き摺り回されて泣き叫んでいたときも、おばあちゃんが出てきて「◯◯さん(母親)、自分の子供殺すような真似やめてもらえねーか」と言って助けてもらったのを覚えています

 これが母親の逆鱗に触れたらしく、わけのわからないことを怒鳴り散らしまくってそれから母親は目に見えておばあちゃんに冷たく当たるようになりました。冷たくというより、はっきりとイジメでした

 なんでも黙って耐えるタイプだったおばあちゃんは何も言いませんでした。  24時間勤務の父親は普段は家にいないのでなにも知らないし気づきませんでした

 

出勤、明け、休み。

 父親の仕事はこのローテーションだったのでいつも父親の「出勤」の日は母親から抑制が外れるのでぼくたち兄弟は本当に嫌で嫌で堪りませんでした。