世間一般では幼稚園、保育園というものは、乳幼児クラス、年少、年中、年長という流れになっているそうですね
よくわかりませんが
自分はなぜだか他の子たちより一年遅く年中組から入園したのを今でも覚えています ...人生の初めから出遅れてる感ありありです
すでにある程度出来上がっている枠組みの中に後から入って来た異物(発達障害気味) 馴染めるわけがありませんでした
生まれて初めて「他人」に接して「友達」を作らないといけない!!
自分が一番上なので兄や姉がいなくてどうすればいいのかお手本になるものがありません。
そこでも案の定、浮きまくっていたぼくは保育士や園長先生からしてみても「扱いにくい子供」だったようです
しかもちょくちょく顔や身体に痣やら傷やらを作ってやってくる園児...察してはいたでしょうが厄介極まりない
当時、児童相談所やら虐待防止やらの仕組みがあったかどうかはわかりませんが何一つ自分たち兄弟の助けになるものはありませんでした
そんな中で自分の記憶にある範囲で人生で初めて声をかけてくれた女の子、たしか「ゆかちゃん」だった気がするのだけれどその娘が家に遊びに来てくれることになりました!
通っていた保育園から家までは歩いてほんの五分程度。園児の足でもせいぜい10分くらいでした
生まれて初めての「友達」が家に遊びにくる!ぼくにとっては大事件だったのです!!
母親の実家以外との人づきあいがほとんど無く(そもそも親戚自体殆どいない)それ以外に家に人が来たりといったことも滅多になかったので、うちに外から人が来るというのはかなり珍しいことでした 。
自分も他人の家に上がった経験は全然ありませんでした
なので、自分の家が今でいう「ゴミ屋敷」だったことにも当時まるっきり気が付いていませんでした
人の目なんて全くない「閉じた世界」の家の中。
足の踏み場もないくらい衣類やゴミが散乱し壁側には何に使うかよくわからないモノの山
一階と二階で祖父母とは住み分けていたので自分たちの普段の生活圏の二階はそれは酷い有様でした
「掃除」やら「片付け」をする人はいません
母親にそんな能力もやる気もありませんでした。勝手にモノの位置を変えたり動かしたりすると、殴られます 蹴られます とても長い時間、怒鳴られなじられ、食事も取らせてもらえなくなります
「綺麗」とか「汚い」がよくわからなかった当時のじぶんはただ友達が初めて家に来るということにウキウキしていました 今思えばやたらと母親が焦っていました
家に入ってから若干引き気味の「ゆかちゃん」に「おもてなし」をしなくちゃと思ったらしい園児の自分は「お客さんが来たらお茶やらお菓子を出す」というのは知っていたようで押入れにしまって(放り込んで)あったジュースを取り出そうとしてしまいました
元々ゴミ屋敷の家の中、目に見える範囲だけでもメチャクチャなのに押入れの中なんていったら最悪です
押入れというのは子供を折檻して閉じ込めるための檻のことです
押入れからジュースを取り出そうとする4、5歳だった自分にメチャクチャに汚い家の中のさらに汚い押入れの中を人目に晒そうとしている自分にその場にいた母親はキレました
「辞めなさい」と静止していたらしいのを聞こえていなかったのか、聞いていなかったのかした自分を、「ゆかちゃん」の見ている目の前で後ろからおもいっきり床に叩きつけました
何が起こったのかわかりません
突然、景色がひっくり返って初めて遊びに来てくれた女の子の目の前で無様にひっくり返っている自分
全身が痛かったです。特におかしな方向にねじりながら体の下に入っていた左腕が痛くて痛くて痛くて堪りませんでした
うずくまったまま「痛い痛い」と泣き叫ぶ自分にいつもと様子が違うことに焦った母親は急にオドオドしだしました
目の前で泣き叫ぶ自分にびっくりして「ゆかちゃん」も泣いていたのを覚えています
体の下敷きになっておかしな方向に曲がり動かすと泣き叫ぶ左腕に動揺した母親は仕事中だった父親を呼び戻すことにしたようです
それからのことはよく覚えていません 父親の運転する車に乗せられたじぶんは左腕を固定されながらどこかの病院に連れていかれました
狭い地元の中にある病院は、だいたい全部把握しているはずなのですがなぜだかいまでも、この時自分がどこの病院に連れていかれたのかが全然わかりません
走っている車の窓から見た夕方の暮れかけた空と、道路沿いに並んで植えてあった南国風の街路樹のある景色だけは今でも頭に焼き付いています
思い返してみるとレントゲンを撮影するためのものだったことがわかる赤い光に満たされた部屋の中に入れられたじぶんわ、若い医者(放射線技師?)に「動かしたらダメだよ」と言われ台の上に左腕を固定されました
痛くて怖くてしょうがなかったじぶんは泣きながら何度も腕を動かしてしまうので、何度も何度もその若い先生が部屋の中に入って来て腕の位置を調整されたのを覚えています
気がつくて左腕にはカチカチのギブスが巻かれていて、診察室でさっき撮影したらしい細い自分の腕のレントゲン写真を前にして父親と二人であーだこーだと説明を受けてその日は帰されたようです
驚いたことに家に帰ってみると「ゆかちゃん」はまだそこにいました
目の前で母親から床に叩きつけられて腕を骨折して無様に泣き叫んでいた同級生?を待っていてくれたのです
その後のことはもうよく覚えていません
当時の大人の感覚は自分にはよくわかりませんがまぁまぁの大怪我を負わせた虐待の「動かぬ証拠」がある状態でも(しかも目撃者付き)母親が咎められることはありませんでした
なぜだかいつのまにか左腕の骨折は「自分で勝手に転んだ」ことになっていて、通っていた保育園の中でもそれが共通認識になっていたようです
自分に大怪我を負わせた母親はむしろ「危なっかしくて手のかかる怪我をした粗忽な子供を献身的に世話をする母親」として周りからもてはやされているようにすら見えました
自己顕示欲と承認欲求の塊だったあいつはさぞ気持ちがよかったことでしょう
自分が今でも基本的に人間が大嫌いで(とくに女)を信用できないベースはこのころに造られたような気がします
母親はこれに味を占めました
「代理によるミュンヒハウゼン症候群」長ったらしい名前のこの病名を自分が知るのはもっとずっと未来の話でした